エリェナ パァヴロヴァについて Toggle


ナデジダ、エリェナ

1919年来日した頃の姉妹左:妹ナデジダ、右:エリェナ

 現在、バレエ大国として世界に認められている日本のバレエですが、その始まりは、1919年にロシア革命を逃れて来日したエリェナ パァヴロヴァが、鎌倉・七里ガ浜の地に日本初のバレエスクール「パヴロバ・バレエスクール」を設立したときに遡ります。

 1919(大正8)年、ロシア革命を逃れて来日したパァヴロヴァ姉妹は、神戸経由で横浜に辿り着きました。横浜ゲーテ座などで舞台活動を始めますが、1923(大正12)年関東大震災で被災。妹ナデジダは舞踊家として致命傷ともいえる左脚を負傷し、活動拠点であったゲーテ座も全壊。パァヴロヴァ姉妹は新天地を求め、翌年一時期上海に渡ります。しかし、熱烈な支援者であった澤静子女史の招きによって再来日を決意。1925(大正14)年、澤家の別荘がある鎌倉に定住し、七里ガ浜の地に、日本初となるバレエスクール「パヴロバ・バレエスクール」を設立します。
パヴロバ・バレエスクールからは、その後の日本バレエ界を支える多くのバレエ舞踊家たちが巣立ちます。主な門下生は以下の方々です。震災前に入門した藤田繁、與世山彦士、江川幸一、間瀬玉子。1925年入門の笹田智恵子(服部智恵子)、芝麗子(芝晴園)、辻蘭子。1926年入門春野芳子、1927年入門深澤秀嘉。1930年入門の橘秋子、牧幹夫、東勇作。1934年入門の高柳美根、貝谷八百子、久世玉枝。1936年入門笹田繁子、浅野歌子(笹野又起子)、緒方玲子(近藤玲子)、星野安子。1937年入門大滝愛子。1940年入門島田廣、窪川達枝(佐多達枝)、松岡緑(松岡みどり)などいずれもその後の日本バレエ界の重鎮といえる方々です。さらに、これらの弟子たちから孫弟子、曾孫弟子も生まれ、日本バレエの系譜が形作られ、エリェナは「日本バレエの母」と称されることとなります。
しかし、時代は次第に戦争へと向かってゆき、市民の生活も軍一色に染められてゆきました。パァヴロヴァ一家の日本に対する思いとは裏腹に、外国人に対する目は厳しくなりました。

パヴロバ・バレエスクール

七里ガ浜に設立した日本初のバレエ学校「パヴロバ・バレエスクール」

 1937(昭和12)年、パァヴロヴァ一家は日本に帰化。姉エリェナは霧島エリ子、妹ナデジダは霧島撫子、母ナタリアは霧島桜子となります。さらに、エリェナは、「私も日本人なのだから」と、周囲の反対を押し切り、前線慰問を決意。1941年3月11日中支軍慰問団団長として上海へ出発します。エリェナの舞踊は傷ついた兵士たちの心を慰め、七里ガ浜には多くのファンレターが届きました。しかし、連日の強行スケジュールでエリェナは病に倒れ、1941年5月3日南京の中支陸軍病院で帰らぬ人となりました。

 エリェナ亡き後、妹ナデジダは戦時中の困難を乗り越えて半世紀、七里ガ浜のパヴロバ・バレエスクールを引継ぎました。舞台では、不自由な脚を感じさせずに独特の気品あるマイムで観客を魅了し、稽古場では子供たちにお茶目でユーモラスに指導し、レッスンの後には紅茶とキャンディーを振舞いました。その間、パヴロバ・バレエスクールからは数多くの舞踊家が巣立ってゆきました。1961(昭和36)年には神奈川文化賞を授与されました。晩年は入退院を繰り返しながらも時には病院を抜け出して舞台を見守り、鎌倉のバレエのために尽くしました。1982年12月16日、ナデジダは皮膚癌で死去します。
主を失い、老朽化した建物は1985年取り壊されますが、日本中の支援者からの寄付金により、跡地にはかつてのパヴロバ・バレエスクールのロシア窓をイメージした顕彰碑が建てられました(1986年12月)。パァヴロヴァ一家は現在、横浜外国人墓地に眠っています。